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原田家当主

原田家当主、天文22年(1553)正月で鶴松丸だったのが弘治3年(1557)正月には藤太郎になっててどっちも父が原田内記…やっぱり宗政さん が【幼名】鶴松丸【通称】藤太郎、大蔵 が妥当かな。天文の乱世代全然知らないけど、牧野弾正さんて原田内記さんが伯父なんだ…

ほんで高野 山観音院過去帳で弘治3年に原田内記さんの菩提弔ったの牧野弾正さんと藤太郎になってるのですが、藤太郎のだけ逆修なんですよね。内記さん存命だったって こと?でも内記さんが存命なのに鶴松丸は幼名の時期に家督継いだの??内記さん病気で当主として務めを果たせなくなってたとか?
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殿から左馬への倭歌六首について

ツイッターでこの話題になった時に気づいたんですが「政宗記」と「貞山公治家記録」で、ちょっと内容が違うんですよね。
「武将歌人伊達政宗」や「政宗の文芸」では「貞山公治家記録」版が引用されているのですが…どっちなのっっ気になるっっ

【政宗記】(伊達史料集)
夏衣きつゝなれにしみなれども別るゝ秋の程ぞ物うき
蟲の音も涙催す夕ま暮淋しき床の起臥はうき
哀れけに思ふにつれぬ世の習ひ、馴にし夢の別れおぞする
みるからに猶哀れそふ筆の跡、今より後の形見ならまし
誰迚も終には行ん道なれど、先立つ人の身ぞ哀れなる
吹払ふ嵐にもろき萩の花誰しも今や猶まさるらむ

【貞山公治家記録】
夏衣キツヽナレニシ身ナレトモ別ルヽ秋ノホトソモノウキ
虫ノ音ハ涙モヨホスユウマクレサヒシキ床ノヲキフシモウシ
アハレケニ思フニツレス(ヌの誤植なのかなぁ?)世ノナラヒナレニシ友ノ別モソスル
見ルカラニ猶アハレソウ筆ノ跡今ヨリ後ノ形見ナラマシ
誰トテモ終ニハユカン道ナレトサキタツ人ノ身ソ哀ナル
吹ハラフ嵐ニモロキ萩カハナタレシモ今ヤオシマサラメヤ

それにしても「貞山公治家記録」の「公、左馬助死去ヲ聞召サレ、御嘆惜ノ餘ニ、彌陀ノ名號ヲ御句ノ上ニ置キ給ヒテ、倭歌六首ヲ詠セラル」の「御嘆惜ノ餘」に、うおぉぉぉぉぉっっっっとなる…

葛西大崎一揆

旧暦は7/1だから今日は佐沼城攻め真っ最中ですね。
伊達秘鑑だと左馬は成実と大手担当してたけど、7/2その場で夜を過ごして、7/3明け方になったら左馬抜け駆け(?)して門破ってたから成実的には「えぇ!?」ってなったかな…

中島伊勢さんと左馬の激論が「木村宇右衛門覚書」だと宮崎で「伊達秘鑑」その他軍記だと佐沼なんだけど、どっちをとろうかも迷う。
政宗本人が言ってるから宮崎の方が自分的にしっくりくるかな?
そうなると、
宮崎城攻めで最初搦手担当だった左馬が「大手にさせて!」って言って大手にしてもらって、佐沼でも大手担当で門破ったってことになる?もうあいつうるさいか ら最初から大手側にしておこうぜ暑いし…ていうような流れじゃないとは思うけど、もう今タイピングしている私自身が暑くてそんな心持です(´☁`)アチー

孫兵衛と左馬の競い合いは佐沼の方が都合がいいかなぁ。
東藩史稿だけ読んでて、競い合いで顔と股に鉄砲玉当たったのに佐沼城で敵武将と一騎打ちとかありえねぇ…!と驚いていたので。
佐沼城で一騎打ち後に競い合い、で落ち着かせよう。
孫兵衛の傷についても、目の下か、頬かで分かれていますが…うーん、どっちがカッコイイかな…(///◜◒◝///)目の下の傷の方が描きやすいけど!これは楽しみな悩み。

ツイログ


摺上原陣立ての評定かなんかの。最初本隊予定だったのに別動隊になった経緯がすごい気になるけど殿の計らいだったら良いなぁ。どうにか雪辱を果たして前を向いてもらいたいという!身内にはつくづく優しい殿!

小十郎と左馬


「摺上原の戦いで檜原からの出陣を許してくださったことの、奥会津征伐を貴方に任せられたことの意味を、しっかり考えてください」いつまでも関柴合戦敗退を引きずって小十郎に喝を入れられる左馬をください

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