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伊達人の生きた戦国時代~伊達稙宗と「塵芥集」の世界~【追記】

桜井英治先生「<塵芥集>の構成と性格について」

レジュメに走り書きしたものを列挙します。

「塵芥集」の性格
・分国法が使われた形跡有るのは今川くらい?
・塵芥集はよく練れてないから171条もある?
・近代的なものは、もっといろんなケースに応用できるように一般的なものにする。洗練されずに余計なものが多い。ムラがある。
・刑事関係の条文がほとんど。土地や年貢関係の法は別にあったのか…?
 もしくは御成敗式目を使っていたのか?
 ↑これも違うようだ。
・法というより判例集の性格がある。
・評定衆向けのマニュアルを稙宗一人でつくったのか?

①「生口」は被害者が証人を捕まえて伊達に引き渡す、当事者主義。中世的権力としての伊達氏。
・「裁判か~めんどくさいな~でも訴えてきたから裁かなくちゃ…」
 ↑ただの義務
②家宅捜索は、イエ支配の独立性への挑戦。近世的権力としての伊達氏。
・イエ=在所…治外法権。主人が絶対的な力を持っている。
・主人は伊達の家臣だが、それでも伊達氏が介入するのは難しい。

討論後の対談内容のメモ

【梁川城の発掘状況】山田氏
・稙宗時代はどうなっていたのか難しい。
・お城の中に庭園がある。
・京の文化を受け入れて、文化的に進んでいた。
・西山に移って梁川は廃れたイメージあるが、移転前後に町割りをしたらしい。なぜか。
・文献として城にいたというものはないが、上杉が稙宗時代に梁川に連絡をとってる文書はある。
・発掘と文書の両面から梁川の機能の研究進めていく。

【稙宗の人物像】
・細かい人。
 細かいが、変なところで杜撰。(清水先生)
・細かいが穴だらけ。読んでると好きになってくる。かわいらしい。※歴史家としてはやっちゃいけないけど…。塵芥集で彼の思考過程が読み取れて、好き。
 稙宗の家臣だったら晴宗に仕えたい。主人にするのはちょっとキツイ。
 政宗は勝者の言い分聞いて育ったからああ言ってる。
 埋もれてしまっているから掘り下げたい。(桜井先生)

【分国法について】
・北条は近世を先取りして、よくやっている。
 書状日付と裁判日が結構合っている。
 他は武田と似たり寄ったり。
・窮地に陥ってる時に分国法をつくる大名が多い。今井、結城、六角。
 (桜井先生)自分が生きてれば自分の裁量でやるけど、自分が死んだ時はこうやってほしい、という意味か?
 (清水先生)ある種のメモリアル、記念碑的に…?
 (桜井先生)いや、実際に使ってほしかったのでは。
・伊達はもうちょっとワンマンでやってる感じある。


討論も面白かったです。専門家の方たちでも正確に読み取るのは難しいんですね。読み取れるのは、当時の人たちだけでしょうか。あと、分国法掘り下げる時に、現代のこういう法律の関係者を巻き込んで考えたりするのもおもしろそうだと思いました。
それから対談の稙宗の人物像を聞いて、自分の中の稙宗の方向性が決まった気がしました。描く機会はあるか分かりませんが(; ・`д・´)
梁川城もまだまだ謎が多いんですね。移転前後に町割りした、というのが驚きです。
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伊達人の生きた戦国時代~伊達稙宗と「塵芥集」の世界~

12月13日、伊達市立保原小学校講堂で開かれた伊達市歴史文化講演会「伊達人の生きた戦国時代~伊達稙宗と【塵芥集】の世界~」に行ってきました。

伊達市はいつも高速道路で通過する程度。じっくり立ち寄ったことがなかったのでちょっとした旅行気分です。

保原駅に着くと、講座の係員の方が会場までのMAPを配ってくださってました。
当初予定していた会場から変更になっていたのは知っていましたが、やっぱり不慣れな土地なのでこういう気配りがありがたいです。

会場の保原小学校はびっくりするほど白くてきれいな校舎でした。
会場に入ると席は満席で座れなかったので、会場後方の窓辺から聞く事に。

※走り書きで書いていたり、うろ覚えのところがあるので、もしかしたら事実と違っている点があるかもしれません。ご了承ください。

山田将之氏「伊達稙宗とその時代」

昨年11月の丸森フォーラムの際に、あえて相馬サイドで講演をなさっていたお方ですよね。
天正伊達相馬対決と講演名にはありましたが、当時会場は伊達派大多数の中であえて相馬サイドからのお話し。私も実家は相馬藩なのでなにか勝手にシンパシーを感じておりました…笑
それはさておき。稙宗と塵芥集の概要を30分程度お話ししていただきましたが、塵芥集は政宗の頃にはすでに忘れられていたとのこと。綱村が家史編纂事業やってなかったら今に伝わってないかも…?

稙宗について。「蔵方の掟」「村役日記」など政治改革をいろいろとした人だったんですね(子沢山という印象ばかり持っていて…)。法を整えて税制・軍制度を整えた理想主義の人と紹介されていて、自分の中でもや~っとしたイメージだった稙宗像のピントが少しずつ合っていく気がしました。

塵芥集について。なぜ制定されたのか、実際に使われていたかは不明なようで。
名称に自分の名前が入っていない(「大内氏掟書」「今川かな目録」「六角氏式目」などのような)というのは、言われて初めて気づきました。確かに。「伊達」が入ってたら格が上がる気がします、なんとなく。塵芥集…稙宗はなぜこう名付けたんですかね。
あと、分国法の中で最多条文の171条、内容が具体的(すぎる)。山田さんは稙宗の性格かとも仰ってましたが、後ほど桜井先生の講義でも話題が出てきます。

清水克行先生「分国法からみた戦国時代」

そもそも「分国法」についての知識が無かったので、清水先生のお話しは大変勉強になりました。
伊達家に限らず各戦国大名の分国法を具体的な事例を基に紹介してくださいました。

1.大名法の裁判制度
①評定式日
・各大名、裁判を開催する日は決まっていたらしいのですが、発給した裁許状類の日付がこの裁判日に必ずしも対応していない。
  例)
   今川氏の場合、毎月1と6の付く日
   (2・6・11・16・21・26日。清水先生曰く、スーパーの安売りの日みたい)笑
   ※最初の日が2日なのは、1日は忙しいから
・レジュメでは、今川・大内・武田・長宗我部が例に上がっていました。武田より今川の方がしっかりしているとのこと。
・各大名裁許の式日を法制化する意識は薄く、なんとなくぐだぐだやってるが、他の大名はもっとひどい。

②裁判の具体的な一例…武田家の法廷に臨む信濃国小池村百姓
・山相論があった百姓が、武田家に裁判をしてもらうため長野から山梨の躑躅ヶ崎館まで行く。しかし武田勝頼は出陣中で留守により不受理。わざわざ行ったのに。゚( ゚இωஇ゚)゚。
・躑躅ヶ崎館内部には恒常的な法廷の場は存在しないらしく、計4回の裁判は全て違う場所で行われた。(「御料理の間(台所)」「御弓の間(弓部隊駐屯場)」「御馬屋ノ北三間目(馬屋のはしっこの部屋)」湯治場「権現ノ舞屋(能舞台か?)」)
・行っても当主がいなければ裁判はできないし、裁判する場所も決まっていないので空いてる場所でやる。

③訴訟費用の公定化(「六角氏式目」六三条)
【意訳】
・裁判おこしたい人は、原告被告とも13万くらい持って法廷に来い。勝ったら金は返却。負けたら負担。
・↑は賄賂に統制を加えようとしたもの。それ以外の大名は、多くのお金を献金した方が有利だった。

2.大名法の刑事制度と当事者主義
・塵芥集にでてくる「生口制」。生口とは証人のこと。泥棒にあったら、被害者自身が犯人を捕まえて伊達家に連行してこないと処断してもらえないらしい。まじでか…。今だったら、自分じゃ捕まえられないから警察に届け出るのに!
・盗品が売りに出されていたとして。被害者は、売り主に誰から買ったかルートを聞く。それをどんどん続けていって、答えられなかった売り主が犯人になる。無実の証明は被疑者の責任。(大内氏掟書 十二条)
・志賀は商業的に発展していたので、店に責任があるとみんな店を開きにくくなる。商人保護のためにも盗まれた人が証明することになった。(六角氏式目 四三条)

3.戦場の法廷とジレンマ
①市川元松・安倍勝宝連署奉書「中込文書」
・皆出陣中で市川と安倍は留守番組。訴えたければ当主が帰陣してからにしてという内容…超意訳ですみません…。
・武田領国では、当主は戦場に家印「龍の印判」を持って行ってしまうので、訴訟は受理されない。
・武田家は勝頼がすべて決断を下していた。
・8ヶ月出陣してたので、その間山梨の裁判は全て停滞していた。
・ほとんどの大名は実印を戦場に持って行く。(戦功をあげた家臣に土地とかをあたえる恩賞を認めるため)
・合戦をするから国内の法律制度が後回しになっていたのでは。

②「言継卿記」元亀二年一二月一六日条
・出陣してると家臣が勝手に判断下さないよう申し付けてる。

③「長宗我部氏掟書」一三条
・"軍陣(高麗御陣)・在京留守中は沙汰これを停止す。"
・当主出陣中の訴訟は受理されない。凍結状態。
・思ったんですが、政宗ってどうだったんでしょうか。文禄の役から岩出山帰ってくるまでの期間の裁判…。留守してた誰かに一任してたとか、そういうのないんでしょうか?

④今川義元判物「大宮司富士家文書」
・戦場で恩賞給付出しまくると二重手形になる危険性があると大名も分かっている。

⑤「毛利家文書」八五七号
・恩賞給付を乱発した元就さんへの弾劾状。これ、とても厳しい直球な言葉で、元就さんには悪いのですが、ちょっと笑ってしまいました…。
・「殿の命令はほとんど実体がない」「国家としてなりたたないとウワサされていますよ」「ゼニと実力だけがすべてだと皆言っていますよ」「控えをとって元就が管理し、前後の脈絡など調べたうえでやるべき」
・留守にしたとき毛利輝元は半紙の左端にサインしたものを500枚置いていったとか。

⑥「采地下賜録」奥書
・晴宗による天文の乱収拾法。乱発した判物をぜんぶ回収して再発行した。結構しっかりしていた。

最後のまとめで、「織田・豊臣・徳川は分国法をつくっていない。法秩序の整備にこだわった大名は意外に弱い」とおっしゃっていたのが印象に残っています。


すみません、時間かかりそうなのでひとまずここで区切ります(; ・`д・´)

上廣歴史文化フォーラムin丸森「天正伊達×相馬合戦 伊具を取るのはどっちだ」

11月に開催されたフォーラムに行ってきました!

狼煙、見応えがありました。
演出面も素晴らしかったです!
狼煙を間近で見たい相馬武士(笑)は携帯電話・カメラなど電子機器は使用禁止。後列で撮影すること。物見櫓から「伊達が攻めてきたぞーーー!!!」と声が上がったのを合図に、鉄砲が打ち上がる。「義胤様にご報告じゃー!狼煙をあげーぃ!!!!」と声を張り上げ小斎城の士気が上がったところで狼煙に着火。時間がかからないうちにモクモクと綺麗な狼煙が上がりました。



一番印象に残ったのは、狼煙の奥から鈍く輝く太陽の姿でした。
見に行けて本当に良かったです。

詳細は武見しぎのさんがまとめてくださっています。
http://togetter.com/li/749573

午後は丸森町づくりセンターへ移動してフォーラム。
お昼ご飯のとってもおいしい芋煮と紫蘇おにぎりを食べた後、まだ時間に余裕があったので会場後方に展示されている千葉先生の漫画に夢中になっていたらすぐ開始時間になってしまいました。左馬が表情豊かで、素直で、癒されるのです…(*´◒`*)

会場は椅子を追加しても足りないくらい大盛況のようでした。

当日のことを思い返すと、呼応して上がる狼煙や小斎城の空を優雅に飛ぶ鷹などの美しい地元風景と共に、地元の方たちの優しい笑顔が浮かんできます。交通誘導してくださった方、物見櫓にどうやっていけばいいか教えてくれた方(墓所入口からのルートが分からずワタワタしてたんです…!)、会場入り口で元気にあいさつをしてくださったスタッフさん、食事を手渡してくれたお母さん方…地元の方たちで作り上げているフォーラム、という印象が強かったです。

小高までの狼煙リレー、ぜひ実現していただきたいですね。

ばくまつ!

先日仙台市博物館で開催された時代考証学会に行ってきて、創作熱が湧いてきました!どこがどう、というより、それぞれの方が政宗について語っていらっしゃるのを聞いていると自分も描きたくなってくるんですよね。なんででしょうね。そして幕末の仙台について、こちらのサイトのWeb漫画を紹介していただいたので読んでみたら、ぐいぐい物語に引き込まれてしまって続きが楽しみでなりません(; ・`д・´)
まだまだ勉強不足ですがアウトプットしたくなったので(仮)な十太夫さんと星恂さん!

伊達学塾「伊達政宗と留守政景」

仙台藩志会公の開歴史講座「伊達学塾」で佐藤憲一さんの講義が聞けるということで、参加してきました!
テーマは「伊達政宗と留守政景」。
1.留守政景の略歴、2.留守氏と利府、3.伊達政宗にとっての留守政景、という流れの約2時間。政景さんについて調べたことがなかったのでへぇー!へぇー!と唸りながらお話を聞いていました。
個人的にテンションがあがった部分を箇条書きにすると…

①20歳で黒川晴氏娘・竹乙(タケオト)姫を娶る。
②政宗にとっては、いざというとき頼ることのできる親戚。最も頼りになる叔父で良き相談相手。合戦に明け暮れた若い政宗の先輩として前半生を支えた最大の功労者。
③常に伊達領の北方守備の要。
④留守政景並びに殉死者画像 虎哉和尚賛 慶長15年(1610) 水沢 大安寺蔵
⑤佐藤憲一さんといえば政宗の手紙…ということで今回取り上げられていたのは天正14年の政宗→政景の大鷹くれくれ書状(笑)でした。

特に④の政景さん肖像画!コピーのコピーだったので全体的に黒くて見えづらいですが、死後わずか3年後の肖像画ということから、こんな感じのお方だったのかなぁーと妄想できて嬉しい…。品のあるお髭、後頭部にちょこんと見える髷。家紋は桐。

⑤の書状はよく取り上げられますが、やっぱり生でお話聞くのは楽しいですよね。「筆跡が滑らかで良いですね」なんてお言葉が出るのも佐藤さんの講義ならではでしょうか。わたしが走り書きしてた文章「・政宗の関心は鷹だが一応追伸で葛西大崎の状況うかがいもしてる・政景は鷹を献上したらしいことが後の手紙で分かる。ここまで政宗に頼まれれば仕方ないのでは…・わたしを憐れんで何とか頼む!・利府は良い鷹が取れる」

講義の最後には、ちょうど慶長遣欧使節団の資料がユネスコ記憶遺産に登録された時期だったため、支倉常長の御子孫からのご挨拶。スペインに行った時のお話をしてくださいました。

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