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侍A感想

そういえば、サムライエースで伊達家モノ連載しているのに感想書いてませんでした。
ということで、以下ネタバレです。
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徒然なるままに

宗政・宗時が戦死・病死と続いていたので(原田内記がどうだったかは分からないけど)宗資が来たとき家中の雰囲気ってどうだったのかな。宗政から桑折家の人間が原田家に来てるから宗資と宗資に従って桑折家から来た家臣たちも、原田家にスムーズに溶け込めたのかな。左馬時代が一番伊達家の勢いがあった頃じゃないかと思うから、思わず先代様の頃は良かった…なんて思っちゃう家臣がいて、宗資はそれにコンプレックスを感じているといいな。
でも宗資は宗政・宗時・宗輔が成しえなかった寿命で死ぬってことをできているからそれだけで素晴らしいよ…(´;o;`)

左門が周囲から嫉妬されて陰湿な嫌がらせをされるネタとか

孫兵衛と三四郎の確執とかもあればいい…領地召し上げ後も反省する風でもなく暮らす孫兵衛にイライラが募っている三四郎。孫兵衛妻はきっとなにも言わず貧しい暮らしに耐えている。ずっと孫兵衛の味方。家来たちも。

寿庵さん後藤家嫡男説にウホッとなっているので、とても妄想が膨らむ。たとえば、寿庵さんが召し抱えられた前年に孫兵衛が許されてるのを見ると、孫兵衛許す代わりに奉公する…みたいな交渉あったらなとか思うけど、自分で書いていてもこれは無理がある\(^o^)/夢だけは見させてください。゚( ゚^o^゚)゚。

坂本に移った時に孫兵衛から肥前に改名したと伊達藩家臣録にあるけど、坂本城主になった後に書かれた左馬の手紙は宛名が「後藤孫兵衛殿」なんですよね。あ、文禄の役の時に政宗から孫兵衛に送った手紙とかその逆のを確認すればいいのかな。
三┗( ^o^)┓ |図書館|

【追記】
「後孫」でした!
慶長6年の書状でも孫兵衛宛になってた。一体いつ肥前になったんだ。

50代孫兵衛


50代孫兵衛を妄想してヒゲを装着。左馬にはできない妄想だでよ…(´;o;`)

それにしても岩出山の左馬、天正19年末の殿の手紙で「折節原左他行の間」ってあるけど、いつもは近くにいたってことかな、どうなの…。いつ大瓜に移ったのかも不明だし…。

文七郎


前は頼りなさげなたれ目の顔つきでしたが、ちょっと違うかなぁともやもやしていたのでデザインを変えました。
お相伴衆で左馬と一緒の時が多かったり京の出陣式のコンビだったりするので、7つ年上の左馬に憧れていたら可愛いなぁと思います。思うのはただです!
伊藤重信さんの嫡子と2才差っぽいので、このあたりも会話をしてほしい。2世萌え。

最近治家記録見たので、左馬とよくお相伴衆一緒になる文七郎とか浜田伊豆さんとか富塚近江さんとかとの絡みを妄想したくてたまりません(人物を知らな過ぎて妄想できない…)

仙台士鑑思ったことメモ

浜田伊豆さんと伊藤肥前さんが仲良さそうかも…?と感じてわくわくしてます。

「人の辱しめを受く直に以て 君の辱しめらるる者と為し挺身之を斬る草の如し」まさに左馬

「公、某城を攻めて之を披く快然の至りに堪へす自ら里謠を口ずさみける」殿やりそう!すごくやりそう!笑

成実の気骨、景綱の膽略、綱元の滑脱

北某、もとは相馬家臣 天正中に伊達家臣に 料理をつくる 鮓が政宗大絶賛で料理人にする

陣中宴で伊藤肥前さんに酒の肴で蟹をあげる政宗様もえ!77

小田原参陣中黒川城で「會津は上杉が入るかも」て噂たって留守の成実が発信源の伊達七郎の妻をつきとめて斬るよう命じたて逸話 成実がウワサ教えてくれた人に「そのウワサ誰に聞いた!一人でも名前言わなきゃ殺す!」ていうようなこといってて おおお81

政 宗と重綱と景國3人のやりとりが強烈で。なんで白石城守るのは重綱か景國じゃなきゃいけなかったんです殿…景國のいうとおり経験豊富な老将とかのがいいん ではなく…?しかも銃創を腰と足にうけて寝てた景国を呼び寄せる殿なんて殿どいひ…「われ汝が一命を所望する」「汝年少花の蕾の如し一命を請ふはわが忍び ざる所なり」重綱には言わんだろうなぁこんなことと思いましたが、これを傍で聞いてる重綱の心情やいかに…(´☁`)  83

重綱と島津家久 85

宮崎城攻め仙台士鑑だと小十郎が「愛宕山の嶮を凌て」火をかけたことになってる。そして伊豆さん戦死した後に小十郎が「柿色帷子を具足羽織とし柿色手拭を被り躍て城に入る」97

佐沼城攻めは月ない

舟山伊賀さんの手拭いで九死に一生のやつ。
あと小十郎家臣の清九郎・藤太郎・源蔵トリオがかわいい!98

舟山伊賀さんの熊装飾やばい。これはおしゃれ番長政宗ホイホイ…102

文禄の役のとき政宗様が熊毛の陣羽織着てたから松川の戦で熊毛の陣羽織着てた屋代家臣庄子隼人を殿と勘違い104

重綱はもともと「水色に井筒」の旗を使ってたけど夏の陣前に景綱から「白地に黒撞鐘の小旗」譲られる105

景綱が政宗から賜った大原真守を重綱が夏の陣で使う。(猩々緋の陣羽織着て)陣羽織は数か所破れ真守も損じる106

忠宗江戸で辻斬り121

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天正十七年六月は孫兵衛は西会津町奥川で上杉との境目守備

1574年。伊東重綱。左近・のち肥前。桃生郡小野城180貫文。1644/11/12没。
1581年伊藤肥前二男・伊藤重村生まれる。七十郎重孝父。通常利蔵。老いて宋休。1668年88歳で自害。

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