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ツイログ

呟いてることどんどん流れていっちゃうからせめてこっちに残しておこうかと思います。
ログ取ろうとしたら今年6月からしか取得できなかった…
長いので折りたたみました

でもやっぱり永岡版政宗のオリジナルキャラ多門は萌えた…左馬との関係が。幼馴染みだけど、政宗派と小次郎派の対立で刃を交える!多門が死ななかったのは無意識に左馬が手元を狂わせたとかだったらいいな。そんで左馬自身は「殺してしまった!」と思ってるとか。とか。

小十郎の気配りの良さに憧れて、自分もそんな風に殿をサポートしたいと思うんだけど小十郎のそれは天賦の才みたいなものだから真似できるわけもなくうわああああって落ち込んで孫兵衛に柄にもないことするんじゃないって鼻で笑われてぷんすかする左馬ください

自然体な左馬が一番なのに、本人はそれを認めようとしない

一途で一所懸命な左馬が好きです…

梵天丸の後にくっついてる虎駒も関柴合戦に敗れた左馬も摺上原で檜原からリベンジな左馬も奥会津征伐侍大将な左馬も三春で盗賊退治な左馬も葛西大崎一揆武功争い左馬も京童をアッと言わせた伊達男な左馬も朝鮮で清正さんに鼻で笑われる左馬も孫兵衛に詩を贈る左馬もうぎゃぁ好きすぎて苦しい則ち文字数

じゃあ、幼剣梅鉢で"左馬仕様 家紋マカロンケース"とかも萌え可愛いい!と思ったけど作れはしない…(っ´ω`)っ

宗が時めく

食の豪傑な左馬とかいいね/// 孫兵衛は長く厳しい檜原城番の生活で食が細くなってたりすると私得/// 団子大会の話聞いて胃もたれしてればいい、小十郎と共に。

左馬の競争意識の高さや負けず嫌いな性格は関柴合戦敗退が原因だといいなって思います

言行録で左馬と伊勢さんの言い争いを守屋さんが例えた話って逆櫓の松って有名なやつなのか

左馬は結局拝領が約束されてた津川を攻めきれなかったけど、他の家臣が新在所与えられてるのに左馬だけ原田城主のまま動かなかったってことなのかな。分からん…このテンプレ当てはめたくなる【何回やっても何回やっても】どうやったら拝領できるか考えようぜ 800戦目【新在所を拝領できないよ】

伊達家臣もちょっとずつ考えてる…重信さんて孫兵衛のいっこ上だったの知らなかった。食の豪傑たちにお説教していただきたいね!

左馬鉄砲衆の我妻九郎五郎って、名前呼ぶときは九郎五郎!て言うのだろうか…なんかくどい気が??

左馬が侍大将つとめたのは関柴にしろ津川にしろ、かなりの切所と思うんだけど、そこに意味はあるのかな

会津手切れの時から左馬は津川もらえるって決まってたってことは、ゆくゆくは上杉方の抑えになる予定だったのかなって考えるだけで胸熱

刎頸コンビといえば、はじまりは山(会津)で最期が海(太平洋の坂元と日本海の対馬)

奥会津征伐はVS山ノ内氏勝て感じなのかな 分からん!教えて成実先生。゚( ゚^o^゚)゚。

政宗記の柳取って梁取のことかな!?

「雑兵たちの戦場」に"一僕者"という言葉が出てきたけど、亡霊退治の左馬の変装、"不肖者の体にて一僕を具し…"ってまさに一僕者じゃないかな!?ってトキメキが止まらない//////////

亡霊退治話は、亡霊じゃなく人間の仕業じゃないか、ではなく、亡霊じゃなく妖怪の仕業じゃないか、と考える左馬が可愛い

さてネタ整理…と思ってファイル開いた途端、山嶺虎駒の文字を見てウホッ虎駒かわいいよ虎駒//////ってなるから全然進まない_(:3」∠)_

宮崎城で浜田伊豆さんが討死した時の伊達方の泣き声の大きさが、敵の大将が、城中で味方が泣いてると勘違いしちゃうくらい大きかったってのを読んで圧倒された。笠原家文書。

仙台風藻にある漢詩、綱元の「元和龍集玄默閹逢首夏日。遊城北天神社前。」の後に左馬の「寄後藤信康」だから余計不意打ちでアウウオてなる アウウオ オウウア

午前4時くらいに起きて行水・神仏拝礼行儀・家族家来に用事の言付け・6時前には出仕して夜は8時前には寝るという…そんな左馬を妄想してるうちに待ち合わせ時間近くなってきた

庚申待…気になる!

頬っぺたに穴空いてたら喋れないのかなぁ?空気がほっぺからもれて…いや、それ以前に痛くて口動かせないか…そんな宮崎城攻め以降の孫兵衛まじ…

紫桃先生の深谷の役シンポジウムの時のお言葉「何でもかでも資料を見付けると鬼の首でもとったように喜ぶものですが、その史実をいろいろ組み合わせて、歴史というものが成り立つのです。」ほんと鬼の首でもとったようにヒャッハーって喜んじゃいますよね…

この時期になると「左馬は一体どんな気持ちで戦線離脱したんだろう、殿はどんな気持ちで必死で説得して帰国させたんだろう、孫兵衛はいつ頃戦死の知らせを受けたんだろう…」いろいろグルグルしはじめます…(´;o;`)

この前の孫兵衛領地召上げの原因を改めてぼーっと考えたけど、左馬に決闘挑まれたり新四郎に熱湯ぶちまかれたり、孫兵衛の日ごろの行いに対して思い当たる節がいくつも…

小牛田町史の寿庵さん紹介ページ読んでウンウン悩んでいる…memoにも書いたけど後藤信家長男説が妄想していて楽しいので、まぁいいかとは思うけど。要は孫兵衛と絡ませたいのだ!左馬が亡くなって以降の時代の楽しみが少ない…(´;o;`)ウオオオオ あとは左門ペロペロしたり…

酒呑童子ってそんな圧倒的支持を得てたの?左馬は武勇逸話とか大好きそうなイメージあるから小さい頃から読み込んでそう!そして咄嗟に出た「幽霊じゃなくて妖怪だ!」だといい…

萌えすぎて自分が人間なのか空気なのか分からないくらいふわふわ現実感がないよ

白石宗実さんの幼名・老後丸って長寿の願いを込めてたのかな…老後丸…

でもやっぱり虎駒って名前が一番可愛いんだよ(不治の病)犬を飼うんだったら虎駒ってつけよう。飼わんけど。

左馬と浜田伊豆さんもわりかし一緒に行動するイメージ

だから永慶軍記の葛西大崎一揆宮崎城戦の伊豆さん戦死で左馬が奮戦しててこじゅと成実が「左馬殿を死なせるな」のとことか凄い好きなんだよね…

政宗から虎哉和尚への手紙訳で「あなたと会って話をしているときのような気持ちで懐かしく読んだ」というのがあって、うおおおこれって左馬から孫兵衛の「我ふミなからなつかしく候」にも「懐かしく書いた」で使えはせんだろうかと文字数

左馬は忠臣って感じじゃないな なんというか…忠政…

木村覚書の摺上原の戦い前の、なんだろあれ、郡山合戦かな??の、伊達主従の佐竹陣所不法侵入がこなれてて初犯とは思えない…笑 鍋とか槍とか盗むヤツ

あと「俺のこと草芥みたいに見やがって!」みたいなセリフで草芥ってなんだと思ったら【雑草とごみ。転じて、不要のもの。くず。】\(^o^)/

我が家設定小十郎は片倉家が伊達家家臣団のシンボルということが分かってて宣伝広告になるような行動を心掛けている割と性格の悪い男かもしれない(今更)

左馬は放っておいても広告になる

トートバッグ鈴木さん、スーパーのビニール袋溜める鈴木さん、タッパ持つ鈴木さん、マツイ棒鈴木さん、チラシチェック鈴木さん

フォルダ整理してたら岩出山の原田家屋敷跡の写真でてきた。寛文事件があったからきっと謎が多いんだよ原田家!とギリギリすることもあるけど、事件があったから「不浄屋敷」として現在も屋敷跡がある皮肉…

孫兵衛の後半の人生全体的に暗すぎるだろ

うおぉぉそんじゃったらわたしは左門に「クランチーキャラメルプラペチーノですね!(にっこり)」てしてほしい 毎日参勤してスタバ破産してやる

プラペチーノ…興奮しすぎた

じゃあ姉妹店みたいな感じで小姓カフェ(リーズナブル)と武将カフェ(高級)希望です

とりあえず左馬を指名して、見栄えの悪い塩おにぎり握ってもらいたいです

あ、そうか、接客できないうえにクレーム問題起こすのは孫兵衛か(ただし一部の若者に絶大な人気)

上杉鷹山公の「成せば成る~」の書状釈文でした。家臣が若殿にすべき話・しちゃいけない話が書いてあって、前者は小十郎してそうだなーってのと、後者は左馬してそうだなーと思って…なんというか、飴と鞭だな。

やっぱり松永版政宗の左馬がだな…松永先生左馬クラスタやろ… 寒気の中にりんぜんとさく梅こそは、至純で豪毅であった宗時の魂のような思い…Foooo…

これって原田家の家紋とかけてるのか…?

故郷の地を踏めなかった左馬の代わりとして朝鮮から原田家の家紋にもなってる梅を持ち帰って移植した だと とてもわたしが喜ぶ

そんなこと考えてたら左馬の陣羽織は臙脂色でもいいかなって

左馬に臙脂色がまったく似合わなくて震えた

左馬は寄り添ってくれる家臣で成実は互いに高め合う家臣で小十郎は引っ張り上げてくれる家臣とか、かなぁ うーん…

成実は「俺だったらこうする…」て政宗のやり方を検証してて、殿は成実の言葉に誰よりも敏感そうなイメージがあります

はっ…そう、死別といえば。左馬って孫兵衛に直接別れの言葉言えなかったし、殿たちにも言えなかっただろうし(はやく帰国して元気になれ!みたいなやりとりな気が)発病から亡くなるまで約一か月じゃ状況だって受け入れられないだろうに、別れの歌がさよならじゃなくて会いに行くよなのが、左馬お前…

左馬→孫兵衛の手紙が石母田家所蔵だったり、左馬の大太刀(と予想されるもの)が間違った情報で伝えられていたりするとは、寛文事件の時に後藤家が敢えて行った策だとすると…と考えて唸る夜。

寛文事件の時の原田家筆頭家老は堀内惣左エ門さんで、その長子が堀内茂助…

高野山観音院過去帳の堀茂介さんの一族だったらいいのにな。うーん。堀は堀、堀内は堀内かなぁ…でも何代目かの茂助さんだったらいいなー。いや、結果としては悲しいんだけど…。

キャンター?ギャロップ?馬の歩様とは…(遠い目)

常歩・速歩・駈歩・襲歩。蒙古馬をイメージか…馬のこと無知すぎて泣ける

左馬と伊勢さんの宮崎城攻めのやつ、親類友人ひっくるめての言い争いで孫兵衛は特に参加もせずににやにや見てて後で左馬から「なんで加勢しなかったんだよ!」とか恨み言言われるような感じ

気が高ぶりすぎて政宗様を左馬宗左馬って誤字

今日の講座で政宗→家康の起請文出てきたときに「前にも言ったかもしれませんが、政宗の起請文て勢いよくドバーっと切っちゃうのか、こんな風に血が飛び散っちゃってるんですよね」と解説されてたのが忘れられない

高麗御陣出立後は、なにか目新しいこと・面白いことがあるたびに「あぁこれ孫兵衛に話してやろうっと」なんて悪戯っぽく笑って、再会したらなにを話そうかで頭をいっぱいにしてる左馬とか!うおーっ(突然の発作)

慶長年中仙台家臣分限帳で原田甲斐300貫文と他の家臣の禄高を見比べてニヤニヤしてたけどいくら探しても孫兵衛がなくてなんでだろーと思ったらそういえば召上げされてたって気付いた時の悲しみ…

孫兵衛の奥さんは美人の巨乳て決めてるんだ ゴツイおじさんの奥さんは美人の法則

政宗に褒められたいし役に立ちたいし笑ってほしい政宗のリアクションがすべての答えでもそれを全力投球で快活にやるからジメジメはしないそんな左馬

天正17年5月23日に亘理ではじめて海遊びする政宗や左馬たちとか、後日孫兵衛に海の雄大さを熱弁する左馬だったらいい

そういえば後藤家って慶長10年時点で250貫文だから原田家と50貫文しか違いないんだよね。「しか」の認識でいいかどうかは分からないけど…!

召上げ前最後の居城は山内首藤氏の本拠地だったとこか…ももも萌える…!

あと宮沢の後藤江とかもあるし移転するごとに各地の治水事業を高い技術力でもって進めてたんではとか妄想すると孫兵衛かっけー

会津イノシシ 仙台ムジナ 三春キツネに騙された だった!タヌキじゃないっっ

知行没収されてからも度々普請のことでお忍び相談受ける孫兵衛とかも萌える ヾ(⌒(ノ'ω')ノ

小次郎出家した説が好きだったからこの本読んですごい頭振って同意した!政宗とお東様が共謀して小次郎を密かに逃がしてお共に縫殿助をつけたてやつ。そして私はW傅役が大好きなので、生涯をかけて小次郎を守る縫殿助と政宗を守る小十郎が、今までは確執があったけど最後の別れ際に理解しあって文字数

刎頸の手紙原文と照らし合わせたけど佐藤さんの解釈が可愛すぎて悶える…そして佐藤さんであってもあそこは意味不明なのか…なんてこった!孫兵衛にも分からなかったオチだったら笑う…

佐沼の役で5個の銃弾を受けた兜と常に用いてた黄母衣がいまも後藤家にあるって書いてあるけど、孫兵衛関連のってもしかして個人蔵が多いのかな

近元の母が遠藤氏って後藤家系譜寫にあるけどほんとかな…?ちがう本だと近康夫人が遠藤玄信娘てなってる…

左馬と若狭で鮭献上合戦

夏の陣新四郎はうおお見ていてください後藤殿ーっな感じで妄想

台士鑑読んでたら左馬が榊原康政さんと言い合いをして帰ってきてから綱元に「切腹命じられるかもしれないけど覚悟してる」て話してる逸話があって笑った。名護屋でも左馬は左馬だった。

さもんぺろぺろを体現する殿

ホームシックならぬマゴベーシック状態ではないかと 圧倒的孫兵衛不足

小田原参陣に左馬が連れて行ってもらえたかって結構気になるけどどこにも載っておらず…(´☁`) 諸境警固賦之日記に名前ないけどないからといって参陣組と断言できるわけでもなくしかもこの日記決定稿じゃないし悶々… でも催促状左馬にも来てるから行くのが筋なのでは…?と思ったり…参陣組希望

一歳差で白石若狭→浜田伊豆→鈴木和泉→政長さん・孫兵衛→小十郎て並んでる世代が萌える

この世代の幼少期てどんな感じなのか…(´☁`)

伊藤肥前△!て思って調べていたら油断した…肥前さん二男は七十郎の父であった…ちょっと未来に足を延ばすと寛文事件と衝突する…。゚( ゚^o^゚)゚。

未だに刎頸コンビの会話は敬語つかわせようかどうか悩むから結構ログ見るとばらばら…(´☁`)

伊藤肥前さん計算したら1537年生まれだったので、宗長さん世代なんか。浜田伊豆さんと親子くらい年の差があったとはーっ

甲斐の子供すごい年子だけど奥さんと仲良かったのかな (´;ω;`)

チベットスナギツネ

桧原城番を耐え抜いた後藤家家臣団の団結力の強さすごそうだなーとぼんやり考える

一定期間でとっかえひっかえ送られてくる派遣社員を抜群の統率力で指揮する後藤信康支店長

浅野長政さんの玄孫が浅野内匠頭と聞いて驚いた。そして吉良を討ち取って帰路につく途中、伊達が赤穂浪士達に粥を振舞ったという話にさらに驚いた。へー。

中島伊勢さんに言いがかりをつけた「搦め手から逃げる兵の首とってなんになるっ」といい、この逸話の「こんなこと得意げに人に語ってもなぁー」って感じといい、左馬なりの功名へのこだわりがあるんだろうな

病死・頓死の者をば~…のくだり読むと、左馬もきっと戦場で討死したかったんだろうなと思ったり…ただの妄想ですが…このまま死ぬのであればせめてどこかの城攻めに混ぜてもらって討死したいくらいに思ってて政宗に必死に説得される左馬とか

夜目が利く左馬

左馬の孫兵衛宛ての手紙は礼を尽くしてる感じがもえるだ 山雲海月よりも伝えたいことたくさんあったのに永遠伝えられないとか頭を抱えるよ

つまり桑折一族の宴があったら偵察に行きたい
三┗( ^o^)┛三┏( ^o^)┓

飯田資親さんについては分かったけど天文23年に64才卒じゃ、左馬妻が左馬の5才年下設定と計算が合わない。゚( ゚^o^゚)゚。 左馬生まれる11年も前に亡くなっている…どうすれば…

浜田伊豆さんの嫡男と政宗もなんであんな仲悪いの 浜田系図でもないがしろにされてた(´;o;`)なぜー

せいじつき せいしゅうき 咄嗟には出てこない…!。゚( ゚^o^゚)゚。

治家記録見てそういえば左馬の屋敷でお茶会やってたじゃん…!と気づいて再び萌えたのと、小野川温泉同行してたの見逃してたので悶えている 小野川温泉行きたい…

伯蔵軒になりたい

左馬妻の一番上のお兄ちゃん文禄2年で75才て 75才て

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